耳の奥に沈んだ海鳴り


海鳴りの音が聞こえる。
静寂に満たされた部屋に木霊している。

ヴェラは苛立たしげに耳を塞ぎながら、途方もなく広がる海を睨みつけた。
「これだから、海は嫌いなのよ。煩い雑音が私の眠りを妨げる!」
ブラウンのウエーブを描く髪を掻き毟る。その手は青白く、うっすらと骨が浮いている。明らかに不健康そうな身を捩りながら、何事かを叫んでいる。
小さな部屋は一気に音に支配された。
またか、とエリックは心の中で呟いた。
彼女の『発作』は唐突に始まる。 初めこそ、それに一々と苦言を呈していたエリックだったが、 自分の言葉が何の力も有していないことを知ってからは、ヴェラの好きなようにさせている。
もう、彼女を止める方法などなくなってしまったのだ。
彼女の夫が死んだあの日から、ずっと。

あの日、海は穏やかだった。 しかし、それにも関わらず、鳥たちは騒がしかった。 鳥が独特の甲高い声を辺りに撒き散らしながら、港町の上空を旋回していた。
その様子を不安に思ったヴェラは今日はやめにした方がいいわと彼を止めるが、 彼は心配ないさ、と彼女を一度抱きしめると、船に乗り込んだ。
それが彼女と彼の最後のやりとりだった。
彼の乗り込んだ船は二度と戻って来なかった。 突然、時化た海に飲み込まれてしまったのだ。残されたヴェラは嘆き悲しみ、遂にこんな科白を口走るようになった。
『海なんて嫌い。あんなものなくなってしまえばいいのに』

それからだった。彼女の被害妄想が酷くなって、歯止めが利かなくなったのは。
町でただ目があっただけの人に、今私の悪口考えてたでしょう!と言って掴みかかったりするなど、 普通の生活を送るだけでも支障ができてしまった。
そこで、白羽の矢が立ったのがエリックだった。彼のもまた、村人たちに疎まれる存在だったのだ。 その為、天涯孤独のヴェラを託されたのだ。
勿論、彼は断ったけれど断れば漁業権を剥奪すると脅され、従わざるを得なかったのだ。

ヴェラの言葉は止まない。 椅子に座ったまま、身を小さく縮めている。何から自分を守るかのように。
「海なんて、嫌いよ。あんなおぞましいもの、消えてしまえばいいのに!」
「そうかもしれんな」
ぽつり、と呟かれたエリックの言葉。 ヴェラは一瞬、驚いて目を瞠ったが嬉しそうに彼女の口が弧を描いた。
「そうよね!絶対に!!」
私は間違ってないわ。
そんな事を言いながら幸せそうに笑った。とても、幸せそうに。

海鳴りの音はやまない。
笑い声の響く部屋には、闇が燻っている。

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